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私にとっては、とても大切な記録文だと思っています。お読みいただければうれしいです。

4周年

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 たばこ。

 この写真は、言わずと知れた、たばこなのですが・・・・・

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 賞味期限が、2014年2月となっています。

 もう、3年以上も前に、期限切れになっていますね。これって、今でもまだ売っているのかな?

 実は、このたばこは、あの忌々しい事故に遭遇したとき、背負っていたリュックの中に入っていた、次に吸うはずだったたばこなんですよ。何となく今まで持ち続けて、そのうち捨てるに捨てられなくなって、今もおそらく失くさないであろう場所に飾ってあります。

 このたばこを見ると、色々な思いが駆け巡ってきます。事故をした直後はたばこを吸うなんて思いもよらないほど痛みにのたうち回っていましたし、第一に、たばこを吸える環境には置かれていなかった・・・・・ほんの畳一畳分ほどのベットに、2か月近くも縛り付けられることになって、その後約4か月もほとんど動けない状態で入院して、たばこを吸うことも忘れてしまったのでした。

 今ではすっかり元気になって現場に戻って頑張っていますが、左かかとや右膝のしびれと、左手中指、薬指、小指を曲げにくいこと、そして両ひざが曲がりにくいことなど、不自由さは残っています。不自由さに慣れて生活できているといった方が良いのではないかとも思います。

 ですが、この事故のおかげで、得たことも多いのです。

 それは・・・・

 自身の健康に気をつけるようになったこと。ジョギング、ウォーキング、筋トレは、退院以来ずっと続けれています。これが一番大きな得たもの。

 そしてもうひとつ・・・・・

 上の写真のたばこの、次のたばこを購入する必要がなくなったこと。

 これが一番大きいかな・・・・・

 自身の健康を考える上で、たばこを吸わなくなったことは、とてつもなく大きなことだと思っています。ある意味、これは「儲けた(^^)」と思っているくらいです。

 ほんまに、大きい・・・・・

 4年前の事故は、確かに忌々しい、人生の中で決してあってほしくなかった事象ですが、得たものも多い、というのが今の私の結論です。

 今はとにかく、健康に生活できていることに感謝をして、これからも生きていこうと思います。

楽マジブログ、条件限定で復活します

 諸般の事情により、突然ブログが途絶えてしまいご心配をおかけしましたが、「楽しく投げ釣り、マジに投げ釣り」のブログを、条件限定で復活させることにしました。「条件限定」とは、今年度より自らの立場が転勤とともに変わりまして、立場上あまり気のおもむくままに文章を書くわけにはいかなくなってしまいました。それで、最初はブログを完全に閉じてしまおうと考えたのですが、釣行のことも発信しなくなったのでは、ブログを始めた当初の自らの初志を大きく逸脱してしまうのでは、と思いました。なので、ブログは継続するけれども、記事を書くにしても、釣行記を中心に書いていくにとどめよう、と考えることにしました。今後は毎日更新はとても無理と思われますが、とりあえずはブログを復活させて、少しずつでも更新していこうと思っています。というわけで、懲りることなく、今後もどうぞよろしくお願いいたします。

 今日はとりあえず、私自身のフェイスブックの記事をシェアすることからはじめてみることにします。最近、どうしても気持ちの中で引っかかりがあって、それでフェイスブックの記事にしてみました。フェイスブックの記事とと重なってしまいますが、どうかお読みください。

 今、教育界では、脱ゆとり教育が謳われています。1980年代から始まった「ゆとり教育」は、それゆえに学力低下が指摘され、各方面から批判が起こったとのこと。そのために、ここ数年で学習指導要領が大幅に改訂されています。

その改革自体を批判するものでは全くないのですが・・・

1980年代と言えば、まさに私が教職に就いた時期と重なります。そう考えると、私と同年代の教師は、ゆとり教育とともに歩んできたと言っても過言ではありません。この記事を見ていただいている方には私の教え子もいます。思い出してください。教室に掲示してある時間割には、「ゆ」という文字が踊っていましたね。あの時間、色々なことに活用できました。運動会の選手決め、遠足の班決め、学級の組織作りから、クラスで起きた問題の話し合いまで。そんな時間に目を輝かせて話し合いに参加するクラスの子を見て、目を細めていたのを思い出します。

決して完璧なクラス運営が出来たとは思っていませんし、教科を教えることももっと工夫のしよう、努力のしようがあったと思うし、もっともっと色々な力を生徒につけてあげたかった、そう思います。心残りは色々あります。

ありますが・・・

ゆとり教育はそんなにだめだったのか、なんだか、脱ゆとり教育なんて言われると、自分の教職人生と、ゆとり世代と言われた皆さんを全否定されているようで、無性に悔しい。

自分なりのポリシーを持って、30数年間歩いてきました。そのポリシーはどんなものだったのか・・・

残り少ない教職人生の中で考えていこうと思っています。

今日はとってもかた苦しい内容でした。

すみません(>_<)

父の故郷「丹波」へ

 去る19日に89歳で亡くなった、私の叔父の通夜、告別式に参列するため、昨日夜から父の故郷「丹波」へ行ってきました。

 私たち親類の間で通っている「丹波」については、このブログを始めた頃の記事「釣り好きの原点」で書かせていただいていますが、幼い頃から自分の故郷のようにお邪魔して、そこでお世話になった叔父が亡くなったのでした。

 いつ訪れても、「よう来てくれたな。」と笑顔で迎え入れてくれ、それでもって、真面目で几帳面で、私に言わせるとまさに「人格者」とも言えるべき叔父でした。

 例外なく戦争で痛手を負った人でした。昭和19年に満州戦線に配属され、終戦後はロシアの捕虜として、シベリアに3年間も抑留されました。氷点下40度以下にまで下がるシベリアでの環境は、叔父の身体にかなりの痛手をもたらし、抑留の際に負った傷が元で、平成元年には左足を切断しなければなりませんでした。ただ、切断する前はその傷のせいで体調がずっとすぐれることがなかったのに、切断後はそのときの病弱がうそのように元気になられ、家業の工務店の仕事と畑仕事に精を出された晩年でした。片足がなくても、とにかく真面目に、コツコツと、無き左足の分まで働く・・・がモットーの叔父でした。

 父もそうでしたが、同年代の方の生き様には、たとえそういった世相の中を生きていかざるを得なかったとはいえ、本当に頭が下がる部分が多いです。私ほどの年齢にもなると、親類の諸先輩方の法事ごとが多くなりますが、そんな法事のたびに、故人の偉大さを思い知るお話を聞かされるのです。

 このたびも、叔父の生き様をたくさん聞かせていただき、そして勉強になった、そんな葬儀告別式でした。

 昨夜は、次兄とともに、幼い頃随分とお世話になり、今はいとこが守っている本家に約30年ぶりに泊めていただき、いとこを交えて3人で、夜遅くまで語り明かしました。きっと叔父が、「たまには泊まりに来んかい!」と声をかけてくれたのでしょうね。久しぶりにいとことの楽しいひとときでした。

 昨夜から当地では断続的に雪が降り、通夜から告別式、そして初七日法要にいたるまで、ずっと雪でした。午後7時頃に帰路につきましたが、周山街道(国土162号線)の峠越えは約20kmに渡って雪道でした。スタッドレスタイヤがここで生かせるとは思っても見ず、昨年スタッドレスタイヤを初めて購入する気持ちになったのは、こんな場合の予感だったのかも、とさえ思えたほどです。叔父が見守ってくれていたのか、雪道でも何の問題もなく帰れました。

 親類の方を京都市内、そして木津川市に送り届け、奈良経由で午後10時過ぎに帰宅。

 少し疲れましたが、こういった大切な日の記録文を書くのも目的のひとつのブログですので、忘れないうちに書きしるしたく、PCに向かった次第です。叔父に元気をもらって、明日からまた元気に働けそうです。

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大物申請を大切にしよう

「ここで余談ですが、私は記録物のお魚や、微妙な寸法のお魚は必ず魚拓に取ることにしています。もちろん写真申請もしますが、安易に写真に頼りたくないんですね。やはり、全日本サーフは魚拓申請が基本であると思っています。魚拓は全日本サーフの文化だと言っても過言ではありません。」

 2日前にこんなことを書いて以来、ずっと魚拓のことを考えていました。書いた以上責任を感じて、それでいて自分を戒める意味でも、我ながら良いことを書いたな、なんて思っています。

 以前、矢ノ川尻のコトヒキ爆釣のことを書いた記憶があります。(「とんでもhappenな釣り2」)そのときは確か、10匹のコトヒキを仕留めましたが、帰宅後、魚拓を取るのに往生しました。夜中過ぎに帰宅して、その後魚拓取り、結局午前4時頃までかかって、ヘロヘロになりました。また、岡山でニベ(コイチ)を13匹釣ったときも、(「とんでもhappenな釣り7」)魚拓を取るのにとても苦労しました。当時はまだ写真申請が出来ない頃でしたので、サーフの会員さんは束釣りすると、皆さんがこのときの私のように魚拓取りでヒーヒー言われたのではないでしょうか。それくらい苦労して、申請していたということです。今は写真での申請が認められていますが、もし矢ノ川尻の爆釣の際に写真申請が認められていたのなら、その日の私のタイムスケジュールは随分と変わっていたはずです。まず、お魚そのものは、記録物以外はリリースしていたでしょうし、何よりも、釣ったその場で写真を撮っておけばよいわけですから、楽なことこの上なかったことでしょう。帰りのクーラーボックスは軽く、帰宅後すぐに床につけたはずなのです。

 ですが、それはそれでなつかしい記憶です。1匹ずつ一生懸命墨を塗って、紙を置いて拓取りして、フロアは魚拓だらけになっていき、疲れていながらも、その風景を見て納得感を感じたのです。

 その点、今は楽になりました。記録サイズと微妙なサイズ以外はすべて写真で良いわけですから、理事会の大物申請でも、生臭い魚拓をたっぷりと抱えて会場に持参する必要もないし、総じて荷物が手軽です。また、写真申請すると、無駄な殺生を極力減らすことにも貢献します。写真を撮ってリリースできるからです。

 ただ、私が言いたいのは、そのことで何となく大物申請に対する甘え?のようなものが生じていないか、ということです。私は協会の大物審査を担当していますが、尾びれのところが暗くて寸法が読み取りにくい写真、ピントが合っていない写真、お魚が曲がったまま撮影された写真、全サメジャーからかなり離れて写された写真など、1枚1枚に心がこもっていない、とは言いすぎだと思いますが、何でもかんでも写真でいいや、写っていればいいや、という風潮が余りにも顕著になってきているのではないかと思うわけです。

 全日本サーフ黎明期の大先輩方がこの現状を見て何と思われるだろうか。申請数が多くなったのは確かだとは思いますが、何か、大物申請について大切なことを忘れているのではないだろうか、なんて思うのです。1枚1枚の大物申請を大切にしているか、ということです。

 とは言え、私が申請する大物についても偉そうなことは言えず、魚拓率は20%程度でしょうか。ですが、魚拓にしても写真にしても、1枚ずつ心を込めて作成している自信はあるつもりです。魚拓をとるのは決して嫌いではありませんので、今日書いたブログのことをいつも頭に入れながら、これからも大物が釣れたら心をこめて、写真を撮り、心を込めて持ち帰って魚拓を取りたいと思います。

 やっぱり思います。

 魚拓は全日本サーフの文化であると。

 PS 全日本サーフに所属されていない読者の方には、つまらない内容だったですね。どうも申し訳ありません。ブログは私の思いの発信元、という考えで、今日の記事を書かせていただきました。

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初めての投げ釣りの思い出

 皆さん、ろくに釣りに行きもしない私なんぞのブログを、いつもお読みいただき、ありがとうございます。実釣ばかりが釣りではない、釣行だけがブログネタではない、を地で行っているつもりですので、どうぞご容赦くださいませ。

 一昨日に加太の赤灯台波止の話を書かせていただきましたが、実は書いた直後に、初めて友人と行った投げ釣りのことを思い出していたのでした。今日はショボイながらもその話題を・・・・(^^;

 私が初めて投げ釣りに行ったのは、昭和50年、中学校2年生になったばかりの、確か天皇誕生日(今の昭和の日ですね。)の4月29日であったと記憶しています。なぜ日曜日ではないことを記憶していたかというと、確かその日の夕方に釣行から帰宅してすぐに習い事に行った記憶があるからです。

 中学校2年生の頃、学校には釣りの友人がたくさんいました。色々とグループに分かれていましたが、私はそのいずれにも顔を出していたように思います。まるで、今の投げ釣りスタイルみたい(笑) その友人たちと、あるときは池にフナを釣りに行き、あるときは川にハエ(オイカワ)を釣りに行ったりしていましたが、そのうちのあるグループと、初めて海に釣りに行くことになりました。

 場所は和歌山市の新和歌浦漁港。おそらく、「Kの釣り」などの釣り雑誌で調べたのだと思いますが、なぜ新和歌浦を選んだのかは未だに謎です。

 朝4時に起き、5時7分発の始発電車に乗り、前の駅から乗っていた友人と合流します。そのまま難波まで行き、南海電車の難波駅までダッシュ。午前6時発の和歌山市行き急行に乗るためです。その電車に乗ると、午前7時には和歌山市に到着します。和歌山の市バス「新和歌浦行き」に乗って、釣り場到着は午前7時40分くらいでしょうか。中学生が電車で釣行すると、釣り場到着はこの時間が限界でしょう。

 エサは前もって調べてあった港の釣具屋さんで、アオイソメを500円購入しました。そして、新波止の中間付近で、友人達と並んで釣り開始。この波止は上に電線が通っていて、これが結構邪魔になり、何度か引っ掛けてしまいましたが、ラインが細かったのか、引っ張ると何とか取れました。この釣行のために、お年玉を切り崩して購入したのが、会社名は忘れましたが、長門という3.6mの振り出しロッドです。元ガイドと次のガイドが取り外し式になっていて、たたむとトップガイド以下がすっぽりと元竿に収まって、さしずめヘラ竿のような仕舞いだった記憶があります。

 ただ、リールの記憶だけが全くありません。

 結局、投釣りは何も釣れなかったかな? すぐに飽きて、ウキ釣りをしましたが、これにはコッパグレなどが釣れたと思います。隣のおじさんが紀州釣りで30センチほどのサンバソウを釣り上げて、びっくりさせられたのも記憶にあります。

 午後2時か3時くらいまで遊んだでしょうか。私も含めて友人たちは皆習い事を持っていましたので、急いで帰宅しました。バスが国鉄(JR)和歌山駅行きしか手近にはなかったので、和歌山から快速に乗って帰りました。

 これが私の、投げ釣り事始めです。もう40年近くも前のことなのに、この初めての投げ釣り釣行は未だに鮮明に記憶に残っています。皆さんの心の中にも、小中学生の頃に友人と行った、あるいはご家族と行った思い出の釣行がきっとあるのだと思います。時折そんな思い出に浸ると、何となく新鮮な気分になれるから不思議です。

 また時折、思い出話を書いてみようと思います。とんでもhappenではなくても思い出に残る釣りはまた別です。そんな話題はまだまだあるので、実釣記事ではなくても、まあ笑って読んでくださいませ(笑)

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その日

 今日はやっぱりこの話題。

 私の息子は2003年3月14日生まれ。生まれて4ヶ月目に胆道閉鎖症が発覚し、5ヶ月目に生体肝移植。息子が生まれてめでたい年のはずが、思わぬ苦闘の年になってしまいました。ですが、私達は決してへこたれませんでした。そして、4ヶ月の入院生活で家族3人は共同作戦で難病を乗り越えたのでした。

 その年。

 金本選手が広島東洋カープからFAで星野阪神タイガースに移籍。本来、4番バッターとして迎えられたはずの金本選手は、その年星野監督の考えで、とことん3番バッターに徹し、そして、見事にリーグ優勝を遂げたのでした。

 皆さん、覚えていますか?

 昼間の試合で広島相手に赤星選手がライトオーバーの2ベースを放ち、勝利をものにして、夜の試合で2位の中日が敗れて優勝が決まったことを。私は優勝監督インタビューを、入院中の病室で観ていました。星野監督がインタビューで「あ~しんどかった。」と言った瞬間、私は思わず泣いたのを覚えています。闘病生活のしんどさが星野監督のセリフとオーバーラップしたんですね。

 当時のことは、ブログ「保存版」に残してあります。時折読み返したりするのですが、記録を残すためにも、よくぞブログを書いていたものだ、とそのたびに思います。

 あの年の出来事、息子が誕生したこと、難病に侵されて大手術をしたこと、金本選手が阪神タイガースに移籍してくれたこと、そして、星野阪神がリーグ優勝をしたこと。私の人生の中で、一番濃い1年間を阪神タイガースとともに過ごさせていただいた、と今でも思っています。

 息子は現在9歳。そして、今日、金本選手が引退・・・・・

 あの年の出来事は一生忘れません。金本選手、ありがとうございました。そして、お疲れ様でした。

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コンクール当日の記録~私自身のために

 演奏前に私は指揮台の上に立ち、まず生徒達に向かって笑顔を見せ、リラックスさせます。そしておもむろに胸に手をやって人差し指を立てました。

 「心をひとつに。」

 前の日に私が生徒に覚えさせた、私の演奏前のパフォーマンスです。

 そして、おもむろに私は指揮を振り始め、演奏は始まりました。一生懸命練習して、音楽室や体育館で鳴り響いた楽曲が、今日は大きなホールの舞台の上で鳴り響いています。その時間が長かったような、短かったような。

 演奏が終わった後は記念写真撮影があります。全体の集合写真とパートごとの写真、3年生だけの写真と、記念撮影は進んでいきます。生徒達は演奏が終わってほっとしているのかテンションがとても高く、みんなでキャーキャー言いながら写真撮影をされていました。私はこのときすでに、気持ちのひっかかりがありました。演奏中にいくつかのミスがあったからです。直接演奏には関係ないミスだったので、審査には影響しないとは思いましたが、気が気ではありません。

 その後、楽器を運送店のトラックに積み込み、一足先にバイクで学校に向かいました。学校でトラックから楽器を降ろすためです。生徒達はホールで他の学校の演奏を聴きながら審査発表までの時間を過ごしています。その時間を利用して、楽器を学校へ運ぶ作戦なのです。

 学校に着くと、少し遅れてトラックも到着。職員室にいた先生に手伝ってもらって、楽器を1階のトラックから近い部屋に運びました。その間、なぜか気持ちのもやもやがずっと続いています。楽器を降ろした後、コンビニで買った弁当を職員室で食べ、休憩する間もなくバイクで帰りの引率の下車駅まで向かい、そこから電車でホールまで戻りました。バイクを下車駅で停めたのは、引率後すぐに帰宅して、釣行準備をしなければならないからです。ただ、電車に乗ったのが遅く、ホール到着が審査発表の時間ぎりぎりになりそうです。どんな発表でも受け止めるつもりではいましたが、その瞬間だけは立ち会っておかなければなりません。

 電車に乗っている間、ずっと演奏のことを考えていました。

 「あの部分の指揮を、もっとこうすれば、ああすれば・・・・」

 考えれば考えるほど、不思議なくらいにネガティブになって、後悔の文字が浮かび上がります。舞い上がっていたのは自分自身ではないのか、そんなことさえ考えました。おそらく金賞は無理だろうな、そうも思い始めていました。

 ホールに到着すると、すでに審査発表が始まっていました。ぎりぎり私の学校の発表には間に合ったみたいです。私は座席に座る時間もなく、観客席の一番入口寄りの通路で審査発表を聞くことにしました。生徒達は観客席に座っているようです。

 「○番  ○○市立○○中学校 銀賞。」

 「△番  ○○○市立○○中学校 銅賞。」

 こんな感じで発表されていきます。

 実は、私の学校の直前に演奏した学校が、待機する舞台袖で聴いていてとても上手で、間違いなく金賞を取ると思っていました。ところが、あろうことかその学校は銀賞。瞬間私は、自分の学校の金賞をあきらめました。

 そして、私の学校の番。

 「○番 ○○○市立○○中学校 金賞 ゴールド!」

 え?!

 一瞬耳を疑いました。

 金賞?!

 前の学校が銀なのに、なぜ私の学校が?!

 気がつくと、観客席に座っている私の学校の生徒から、大歓声が上がっていました。その声を聞いて、ようやく金賞の実感が湧いてきました。

 今年のコンクール練習では、私なりに考えた独自の練習方法を2~3取り入れました。その練習方法が効を奏したのか、よく考えると本番の演奏は他のミスはあったもののほぼ理想通りのものでした。「金賞」がわかってからよく思い出してみると、演奏自体にはミスはほぼなく、何を自信なく過ごしてたんやろ?なんて、苦笑いが浮かんだほどです。ですが、ここ何年も金賞から遠ざかっていて、自分自身の指導方法が果たして良かったのか、なんてずっと思っていたものですから、ついつい自信なげな考え方になってしまうんですね。

 ホールを出ると、舞台で賞状とトロフィーを授与されたキャプテンが待っていました。顔にはややこわばった笑顔が浮かんでいます。

 「おめでとう。」

 と言って握手をすると、途端にキャプテンは泣き崩れてしまいました。よほど緊張していたのと、よほど嬉しかったんでしょう。続いてホールから出てきた生徒達も、皆泣き顔でクチャクチャになっていました。

 先日私は、「生徒の喜ぶ顔が見てみたい。」なんて書きましたが、こんな感じに喜びを表現するとは思ってもなく、私までなんだか泣けてきたのを覚えています。

 解散の駅の前にある広場で生徒を集合させ、私は生徒達に言いました。今回の結果はうれしいものになったけれど、この結果を次の学年が受け継いでいかないといけない。この先もさらに練習や!と。

 最近は自分自身クラブ運営に疲れていて、もうそろそろクラブ顧問も引退なのかな、なんて思い始めていましたが、これでまた来年も頑張らなければならなくなりました。1年ぽっきりで良い結果を途絶えさせるわけにはいきません。この時期、釣りとクラブの両立は難しいですが、来年の今頃もきっと、釣り禁止でクラブ指導を頑張っていることでしょう。

 「熱中できることがあるんはええことですよ。」

 若い先生は私にそう言ってくれました。確かにその通りかもしれませんね。吹奏楽がなければ、夏休みの前半はきっと、無味乾燥なものになっていることでしょう。吹奏楽のおかげで、私は頑張れているのかもしれない・・・・

 仕方がない。来年もまた指揮台の上で、指揮振りますわ(笑)

PS 2つのクラブを運営するのは大変・・・・(笑)

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私なりの思い出

 私がある総合病院で副鼻腔炎手術後に入院中のこと・・・・

 早朝、突然大きな揺れに襲われた。眠っていた私はあわてて飛び起き・・・ようと思ったら、突然頭に衝撃が! 折角起きたのに、目の前が真っ暗になり、星が飛び回って、私は再びベットに倒れこんだ。一瞬何が起こったのかわからなかった。大きな揺れのために、病室の他の患者の方も当然目を覚ましておられて、倒れこんでいる私のところにきて、「大丈夫ですか!」などと声をかけてくださった。額に手をやると、血が出ていた。他の患者の方にティッシュを頂いて、しばらく額を押さえていた。どうやら、テレビの上に置いてあった魔法瓶が、揺れのせいで額目がけて落ちてきたらしい。

 10分くらいして、ようやく看護士が巡回に来た。

 「皆さん、大丈夫ですか~」

 何とも切迫感のない声で、そう声をかけてくれたはよいが、ティッシュで押さえている手の隙間からその看護士を見ると、何とすっぴんだった。なぜすっぴんとわかったのか・・・・眉毛がなかったから・・・・10分もたってからやってきて、すっぴんで寝ぼけ眼の顔と声。何だか切なくなった。

 看護士に額の応急手当てをしてもらい、テレビのスイッチを入れた。NHKニュースでは、大きな地震が起こったことを伝えていたが、スタジオでは情報が錯綜しているのか、「どこで」とか、「どのくらいの」といった地震の肝心な情報が皆無のようだった。額を押さえてベッドに横たわり、しばらくテレビを見ていたと思うが、少し落ち着いて他の患者さんを見ると、皆、大きな窓のそばで外を見つめている。声を失って外を見つめているのだ。病室は6階だったので、外の風景がよく見える。私もよろよろと立ち上がって窓から外を見てみると、朝焼けでうっすら明るくなった中、あちこちで煙が上がっているではないか。その窓は北西方向を向いていたので、方角からすると神戸方向であると思われた。何となく大変なことが起こっているような気がした。そして、徐々にわかってきた大きな被害・・・・・私は声を失い、呆然としていたような・・・・

 その日は、担当医の診察を午前10時から受ける予定だった。ところが、予定の10時になっても看護士が呼びに来てくれない。しびれを切らせて通りがかりの看護士に尋ねると、交通機関が麻痺していて、担当医がまだ病院に到着していないとのこと。その担当医は西宮の方だった。

 昼になって、いつものように昼食の時間。担当医が来れないのでは仕方がないな。そう思って、食後はずっとテレビニュースを観ていた。

 午後2時頃、ようやく病院に到着したのか、担当医が突然私の病室にやってきた。

 「矢野さん、ごめんごめん。電車が止まってしまっててな、大変やったわ。」

 それにしても、私が診察室に行くのではなく、なぜ担当医がわざわざ私のところに?

 「矢野さん、ごめんついでにもうひとつ。退院してほしいねん。病院のベッドをできるだけ空けるようにって指示が来てな、それで、軽症の患者さんに分担して声を掛けて回ってるわけやねん。」

 そのように言われたような。私は鼻の中に大量のガーゼを詰められた状態のままではあったが、幸いにも額の傷も大したことはなさそうで、何とか帰宅できそうだ。大変なことが起こったときだけに、それは仕方がないな、そう思って私は退院の準備をし、病室の他の患者さんに別れを告げて、迎えに来てくれた父の車で私は帰宅した。

 上の話は、言うまでもなく17年前の1月17日の出来事。私が私なりに体験した、兵庫県南部地震発生当日のことだ。あのときのNHKニュースのアナウンサーの顔、成田離婚をしたことがあるとおっしゃっていた担当医の顔、すっぴんの看護士の顔。今でもしっかりと記憶に残っている。

 あれから17年。鼻はすっかり元に戻った。

 追伸

 後日私は、病室で仲良くなった他の患者さんを見舞って、外来診察のついでに病室を訪れた。私が寝ていたベッドには、別の入院患者が眠っておられた。震災で怪我をされたのだな、そう思ったが、病室の他の患者さんからこんな話を聞かされた。

 「矢野さんの後に入院したあの人な、副鼻腔炎で入院されたんやって。」

 ・・・・・そこには、言葉を失った私がいた。

 追伸 その2

 地震で魔法瓶を額に落として怪我をした私。こんな私でも震災の負傷者1名なのだそうだ。

 魔法瓶をぶつけた額の傷。今もうっすらと跡が残っている。

 

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250号の実感

 先日、無事通過することができた、大物250号。200号を越えたあたりから、もう頭の中は「250号」のことで頭が一杯で、釣行するたびに250号、250号と頭に思い浮かべながらの釣りだった。だが、通過してみてわかったことは、結局ただの通過点に過ぎないということ。250号に到達したからと言って、私の投げ釣りスタイルが変わるわけではないし、狙う魚が全く変わってしまうわけでもない。ましてや、「私」という人間が変わってしまうわけでもない。

 釣行から帰ってから、250号のことについて、あれこれと書こうと思ったが、思ったほど書こうと思ったことが思い浮かばなかった。なので、もう250号のことには触れずにおこうと思ったのだが、我がクラブの新鋭、ゆうたろうさんがご自身のブログで、大々的に私の250号のことについて触れてくださっていて、もしかするとこれは語らずにはおれないのかも?なんて思い出して、それでここは一丁250号についての思いをもう少し掘り下げて語ってみよう、そう思って今日はPCの前に座ることにした。

 私が全日本サーフに入会したのは、平成2年(1990年)5月。入会したいきさつについては以前に書いたことがあるので省略するが、つまり250号に到達するのに足掛け22年かかったことになる。

 ここで、節目の魚拓申請を書き上げてみる。

 第1号・・・林崎一文字(現在の林崎ベランダ)にてアイナメ35.5センチ。平成2年11月11日。同じ日に釣り上げたのが、Dランクのカモメ(笑)

 第2号・・・住金裏にてマコガレイ32.7センチ。同年12月28日。小雪が舞う、寒い日だった。早朝から震えながら、粘りに粘って夕方4時頃に釣り上げたことを覚えている。

 第3号・・・鳥羽菅島旧石切り場にてアイナメ30.6センチ。平成3年3月3日。初めて月例会で鳥羽の島嶼部に連れて行ってもらい、故小林元会長のアドバイスで釣り上げることができた。この日以来、鳥羽菅島旧石切り場のファンになった。

 第10号・・・京都府伊根網干し場にてトカゲエソ41.5センチ。平成3年8月27日。第9号トカゲエソ35.5センチとダブルで釣り上げた。このときのエサはイシゴカイ。マゴチのエサのピンギスを狙っていて、エソが釣れてしまった。肝心のエサのピンギスは釣れず。翌朝に、別場所で釣って持参した、たった3匹のシロギスをエサにして、第11号のマゴチ55.5センチを釣り上げたのは、過去の「とんでもhappenな釣り 4」で書いたとおり。

 第50号・・・三重県尾鷲市矢ノ川尻にてコトヒキ33.5センチ。平成5年4月9日。この日は半夜釣りでコトヒキCランクを含めて10匹の大爆釣。今では考えられないこと。この10匹のおかげで、50号は風のように過ぎ去った(笑) この日の釣りは、同じく過去の「とんでもhappenな釣り 2」で書いている。

 第100号・・・三重県尾鷲市三木浦岩場にて、シロギス27.2センチ。平成7年5月14日。月例会で、初めて歩いた三木浦の岩場だったが、勢いこんで釣り始めたものの、夜中は巨大ヒトデのオンパレードで、うんざりしていた。ところが、夜が明けかけたときに幸運にも釣れた、うれしい1匹だった。

 第150号・・・兵庫県西宮市武庫川一文字にて、スズキ70.0センチ。平成9年8月12日。お恥ずかしいことに、これは電子ウキのコスリ釣りで釣れたもの。玉網を持たずに200mほど歩いて当たったものだから、掛けてから200m魚を引きずって後戻り。5.4mの磯竿1号で魚をだましだまし引っ張って、それなりに苦労して取り込んだ。ハリ(チヌバリ3号)は、スズキのとんがった口先の上アゴに、見事に刺さっていた。このときの磯竿は、コアジのサビキ釣りなどで、いまだに愛用している。この日の約10日後、有田川一文字にて、塩イワシでスズキ74.2センチを釣り上げている。これは、「とんでもhappenな釣り 8~この1匹」で書いたっけ?スズキDランクは、後にも先にも、この2匹だけ・・・・(>_<)

 第200号・・・兵庫県浜坂町(現在の新温泉町)浜坂一文字にて、スズキ64.0センチ。平成18年10月10日。以前にも書いたが、この釣行に行く前が198号で、立て続けにスズキを釣り上げたものだから、250号と同じく200号リーチの瞬間がとても短かった。同じ日に、私のホウボウの自己記録、45.0センチも釣り上げている。スズキよりもおいしかった獲物。

 そして、250号到達。平成23年10月8日。読者の方はお気づきと思うが、大物150号から200号まで、足掛け10年も要している。これはなぜか。我がクラブのメンバーは皆知っているところだが、私の私生活に大変動があった時期と重なっているからだ。私のサーフ人生、いや、本来の人生の中の暗黒の時期であった。詳細はここには書けないが、このことで、私は全日本サーフを退会しようとさえ思ったくらい。あのとき、故小林元会長を初め、二代目会長の萩山氏、そして、現副会長の福岡氏、そして、ありみつやんか氏などなど、クラブのメンバーに様々な相談にのってもらっていたから、サーフを退会せずにすんだ。そして今の私があると思っている。細々とでも、サーフの会員を続けて、投げ釣りを続けてきたから、250号という数字に到達できたのだ。その点で、北斗のメンバーには感謝しても感謝しきれないくらい。

 私が、北斗の会長を引き受けたのは、そんなクラブ員皆の恩に報いるためといっても過言ではないのだ。そんな、人生の良き伴侶とも言うべき、北斗があったから、250号は達成できた。

 250号は、ただの通過点。ただ、その数字の裏には、とても重い、私にとってはかけがえのない何かがあることだけは、これからも忘れずにいようと思っている。300号なんてとても到達できるとは思っていないが、投げ釣りへの情熱は忘れず、これからも「楽しく、マジに」投げ釣りを続けていきたい。

 これが、今の「250号の実感」。

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小林正卓初代会長を偲ぶ

「私が北斗サーフに入会したのは、平成元年の5月。月刊誌「関西の釣り」の会員募集の広告を見て入会を決めた。決め手は、当時の小林会長がすぐご近所にお住まいであるということだった。電話で連絡をすると、早速自宅に仕事帰りの小林会長が駆けつけてくださった。入会希望の人からの連絡とはいえ、そうして早速に訪れてくださった小林会長に大変感激したのを覚えている。手続きやいろいろなことを丁寧に説明してくださり、申請する予定の魚拓等をたくさん見せてくださった。その時点で、私は小林会長の人柄に一目ぼれし、即入会を決めた。」

 上の文章は、2008年2月19日に、このブログに書いたものの抜粋である。

 今日は、小林氏の葬儀告別式に参列させていただいた。読経を聞く間、私はずっと上の文章の風景や、他の小林氏との思い出を思い出していた。その一場面一場面が、地味でぶっきら棒ではありながら、温かみがあって、しかもずしっと重みのある言葉が、ひとつひとつ思い出されていた。

 それでいて、例えば大物が釣れたときなど、子どものような満面の笑顔をほころばせて喜ぶところなど、純粋な心も持ち合わされた方だった。

 そんな小林氏のエピソードをひとつ・・・・

 あるとき、めずらしく小林氏は矢ノ川尻へコトヒキを狙いに一人で釣行された。夕方に釣り場に着いて早速竿を3本出し、釣り開始。すると、ほどなくしてアタリがあり、なんと釣れてきたのはAランクのシロギスであった。そのとき氏はものすごくうれしくて、そのシロギスが釣れてすぐに納竿して家路についたそうだ。コトヒキの時合いを待たずして、そのシロギスの魚拓を取るために、家路を急ぐ・・・・私にはとても考えられない。それだけ1匹の大物を大切に思われていたという証なのかも。

 ここ数年は体調をこわされて入退院を繰り返しておられたが、今年の正月過ぎに、ご挨拶にご自宅を訪問させていただくと、たまたま退院直後の氏とお会いすることができた。酸素チューブを鼻に入れて、ボンベを手にして応対してくださった。そのときの氏の一言。

「オレな、釣りに行きとうて、行きとうて、しゃーないねん。」

 明るく屈託のない笑顔で、そう私に言われた。

「元気になられたら、お供しますので、ご一緒しましょう。」

 そう声をかけて氏のご自宅を後にした。

 それが最後だった。

 「もう一人の親父」と慕った氏が、何の因果か私の父と同じ年に他界されてしまった。享年81歳。今は心よりご冥福をお祈りしますとしか言いようがない。

 氏が創設された我が北斗サーフ。そのお人柄に惚れて集った仲間が、一時最大26名。私もその中の一人として、もう人生の半分近くを北斗サーフとともに歩んできた。縁あって会長に就任したが、そんな小林氏の志を大切にして、これからも投げ釣りを通して仲間を作ることに貢献していきたい、今日は改めてそう思った。

 今年の9月、小林氏追悼月例会を小林氏とご縁のあった方も交えて開催する予定。

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 写真は、在りし日の小林氏(1列目左端)とともに写した集合写真。2008年8月24日、淀川尻にて。この日が、小林氏が参加された最後の月例会となった。

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