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2014年8月

アーカイブkakokiji2 息子の生体肝移植手術

 今日3月14日は息子の5歳の誕生日。ホワイトデー生まれとか、円周率生まれ、と呼ばれている。息子が生まれたのは、星野阪神が優勝した平成15年。大の阪神ファンである私は、それがゆえに息子の生まれ年を言えるというのが表向きであるが、平成15年といえば我が家にとって、息子にとって、誕生以外に大事件が起こった年でもあった。

 平成15年6月のある日、息子がウンチをしてオムツを取り替えているときにその事件は始まった。息子のウンチが真っ白なのだ。実は生まれてすぐにできる黄疸が、3ヶ月経っても消えないので、夫婦ともどもおかしいと思い、産婦人科医に尋ねたのであるが、ときどきあることだから心配されないように、とのことだったので、あまり気にも留めずにその日を迎えた。そしてそのウンチ。そのウンチを見たときは思わず夫婦で目を合わせた。誰が見ても、どう見てもそれは異変だった。あわてて妻は八尾市内にあるI病院に電話をし、後日連れて行った。

 血液検査やCT検査、レントゲンなどの精密検査を行った後、その診察結果が出るまで夫婦で待合室で待っていた。診察室がなぜかさわがしい。数人の医師が議論をしているようだ。何分待っただろうか。私たちは診察室に呼ばれた。やはり医師が数人いた。私たちはただならぬ空気を察知して医師の診察結果に耳を傾けた。「息子さんはどうやら重大な病気になられているようです。私どもの病院では治療しかねますので、大阪市内の大学病院を紹介します。」はじめ、そんな漠然とした医師の言い方に現実がつかめなかったが、大学病院の名前を聞いてこれは大変なのだとようやく実感がわいてきた。

 数日後、その大学病院に行き精密検査を受けた。そして、後ほど呼ばれた診察室にはやはり数人の医師がいて、その中の一人が説明を始めた。「息子さんの病名は・・・」胆道閉鎖症という病名だった。このまま放っておくと1歳の誕生日を迎えられないとのことだった。そして私たちは、現実をうまく受け止められないまま、その日から息子と私たち夫婦の、3人力を合わせた闘病生活が始まった。

 息子が白いウンチをしたのが確か平成15年の6月20日頃。2日後に八尾市のI病院にかかって、それから約10日後の7月の上旬に大阪市内の大学病院で診察を受け、そのまま大学病院に入院することになった。妻は病院にかじりつきで、息子の付き添いをしなければならなくなった。数日に一度は私と交代することにしたが、不自由な生活が予想されることには変わりなかった。

 「胆道閉鎖症」・・・肝臓から胆のうを経て、すい臓からの水管と合流して十二指腸につながる管を「胆道」または「胆管」といって、肝臓で作られる脂肪分を消化するための「胆汁」を消化管に流し込むための管であるが、先天的にその管が存在しない、または細くて使いものにならない状態を、こういう病名で表す。もちろん、滅多にある病気ではない。もしこの病気(先天的なものを「病気」と言うべきなのかどうかわからないが。)になると、肝臓で作られる胆汁が消化管に流れずに逆流し、肝臓にたまってしまう。消化管に出ない胆汁は逆に毒素となって肝臓を冒してしまう怖い病気である。だから、胆汁が消化管に出ないと肝臓から血液に漏れ出て、それが黄疸という症状となって現れる。新生児はまだ肝臓の機能が落ち着いていないため、この黄疸の症状が現れるのだが、普通は数週間から1ヶ月で肝臓の機能が正常になるため、黄疸は消える。それがうちの息子の場合はいつまでたっても黄疸が消えなかった。にもかかわらず、産婦人科医の言葉が油断となって、生後3ヶ月までそのままにしてしまった。だから、あの白いウンチが息子の身体から出される精一杯のSOSだったのだろう。なぜなら、普通ウンチが茶色い色をしているのは、消化物に胆汁が含まれるからなのである。「胆汁が出ていないぞ。早くなんとかしないと肝臓が危険になるぞ。」そういう身体からのSOSだったのだと思う。肝臓の機能が停止すると人は生きていけない。肝臓は人工のものとは決して取り替えられない。事態は一刻の猶予もならない状態であった。

 息子の場合はまず、胆道を再構築して肝機能を取り戻すことが最大の目標となった。胆道の再構築手段は、「葛西手術」と呼ばれる、某大学教授の葛西医師が開発した手術法が選ばれた。葛西手術は、小腸を肝臓と直結して胆道の代わりになる管とし、胃からの消化管を、小腸-肝臓間にT字型に接続するというもの。こうすることによって、胆道も消化管も同時に維持できるということだった。まさか息子がそんな大掛かりな手術を受けなければならないなんて思ってもみなかったから、入院が決まって手術をすることなど知る由もない息子をベッドに寝転がせて、私は妻と二人でそんな息子を見つめるしかなかった。そのとき、闘病が長くなるようなそんな予感を二人とも持っていたと思う。二人とも不安で仕方なかったのだ。

 息子は様々な検査を経て7月下旬についに「葛西手術」を受けた。手術時間はかなり長く6時間くらいだったろうか。手術が終わってICUのベッドで眠っている息子を見て、二人ともとりあえずは胸をなでおろした。そして手術後初の排便。ウンチの色で手術の結果がわかる。茶色であれば、胆汁が出ているという証拠だ。結果は・・・わずかに茶色が回復していた。担当の看護士さんが病室に飛んできて、「お父さん、お母さん、茶色ですよー。」と伝えてくれた。よかった、これで治る。夫婦で喜びあった。

 ところが、喜びあったのもつかの間、数日後の診断で思いもよらない結果が私たち夫婦に伝えられた。「胆道は再構築できましたが、残念ながら肝機能はもう回復しないでしょう。残された手段はただひとつ・・・」

「肝移植しかないですね。」

 そう言われてもピンとこなかった。移植なんて自分の周囲であったことはないし、ましてや未来にもあるなんて思うはずもなかった。それがまさか自分の息子にされるとは・・・ 

 胆管が再構築されて胆汁は小腸に流れ込むようになった。ところが、4ヶ月の歳月は肝臓の機能を胆汁の毒素から守り切れなかった。胆汁の毒素に負けた肝細胞は次から次へと肝硬変の症状を起こし、もう残りわずかのところまできていた。肝硬変を起こした肝臓は再起不能となり、やがて肝不全となって命は途絶える。大きな手術を乗り切った息子に、またそれよりもさらに大きな試練が待ち受けていた。

 移植の方法は生体肝移植になった。生体肝移植の長所は脳死肝移植と違い、確実に新鮮な肝臓が手に入る。短所は、健康体にメスを入れなければならないこと。そういった説明を医師から受けた後、「ドナー」つまり元の肝臓の持ち主を選ぶことになった。ドナーは一番近い身内から順に適合するかどうか検討されていく。息子の血液型はA型、私はB型、そして妻はA型。必然的に妻がドナーに選ばれた。すぐにOKの返事をした妻は偉かったと思う。何しろ妻は今まで病気らしい病気もしたことがない、極めて健康な身体だったから。人生初の手術がよりによって健康なときにされる移植手術になるなんて、いかに息子のためとはいえ、ある意味不幸と考えざるを得ない。それでも、とにかく妻がドナーになることになり、慎重に検査が進められていった。肝臓は三角定規の長い方のものと同じような形をしている。そして、左右2つの部分からなり、幅の広い本人の右手側を右葉、狭い左手側を左葉と呼ぶが、その狭い方の左葉を移植することになった。ところが、その左葉の小さい方ですら、まだ息子の身体には大きくて移植できないらしい。ぎりぎりのところの選択だが、息子の身体がもう少し大きくなる約1ヶ月後の8月下旬に手術の予定が入れられた。とはいえ、肝不全が秒読み段階の息子に1ヶ月の時間はどういう意味を持つのか。何が起こるかは全くわからないけど、何かが起こるのではという不安が私にも妻にも確実にあった。

 まだ、手術の傷が癒えない息子の、手術までの闘病生活が始まった。その頃はまだ、この息子になぜさらに手術が必要なのかわからないくらい普通に見えたが、日が経つにつれて状況は変わっていった。腹水がたまりだしたのだ。そして、食欲がなくミルクを飲まなくなっていった。だが、手術を遅らせたのは息子の身体を大きくするための猶予であるわけだから、栄養を身体に入れないわけにはいかない。それで、ついには鼻から管を入れられて、4時間おきに「エレンタール」という栄養剤を入れられることになった。腹水がたまった息子は、カエルの腹に空気を入れたような、そんな腹になってパンパンになってきた。そんな腹になって、おいしくもないエレンタールを鼻から注入されていても、息子はいつも私たちや医師、看護師さんに笑顔を振りまいていた。そのけなげさにいつも涙が出てくるのであった。腹にたまった腹水は、前回の手術後に残しておいたカテーテルから抜き取ってもらう。腹水とはいっても実際には栄養分がほとんどであるから、抜き取りも慎重を期した。「もういい加減に抜いてやって。」と医師に言っても、なかなか抜いてくれないのだ。それでもこれで限界という腹になったときにはようやく医師が来て抜いてくれるのだった。

 1回目の手術から2回目の手術までに3~4回は抜いてもらったのではないだろうか。1回あたりに2Lペットボトル1本分くらい取れたと思う。それくらい腹水が出てしまうほど、肝臓には猶予がないということだった。それでも、土日は外泊許可が出て自宅に戻ることができた。でも、うれしいはずの外泊も、実際は地獄のような二日間だ。まず、そのときを見計らって家事や洗濯、そして自分の風呂と、することを素早く済ませなければならない。その上に、鼻からチューブを入れられたままの息子に4時間おきに夜も昼もエレンタール。4時間おきとはいっても、1回の注入に1時間半以上かかるので、実際には注入後2時間くらいで次の注入が始まる。しかも、毎回スムーズに注入できるとは限らず、もう終わりと思う頃にすべてを嘔吐し、その手入れもしなければならないことも多かった。夜は夫婦で交代できるとはいえ、妻も私も体力に限界があった。日曜日の夜には病院に戻らなければならない。戻ることが辛いはずなのに、なぜかほっとする自分が悲しかった。

 妻も同じだった。刻一刻と自分の腹にメスを入れられるときが迫ってくる中、様々なことをこなしていかなければならない妻は、私よりもはるかに辛かったと思う。ときには夫婦でぶつかって気まずくなることもあって、今から思えばもう少しやさしく接してやればよかったと思う。

 そんな辛い日々が過ぎていき、やがて手術当日8月22日がやってきた。

 その日は朝から大変蒸し暑い日だった。妻は手術のため前日から別フロアに入院していたため、息子には私が付き添っていた。そして、妻が無事退院するまでは、私が付き添いをすることになっていた。午前9時前、看護師さんが運ぶ息子が寝るベッドに付き添ってエレベーターに乗り、手術室があるフロアに移動した。手術室には直接入れなかったが、垣間見える手術室はとても広そうに見えた。そういえば、葛西手術のときに手術室に入る息子の記憶が全くない。それだけ、移植手術の記憶が鮮烈だったということか。だが、このときに同時に手術室に入ったはずの妻を見送った記憶もなくなっている。息子のベッドの横に、後から来る妻のベッドが並べられ、手術をするとのことだったはずだ。そして9時、手術室の扉が閉められ、いよいよ手術が始まった。私は横の待合所で待とうと思ったが、看護師さんに時間がかかるから一度自宅に戻られたら?と勧められて、一旦自宅に戻ることにした。

 この手術近辺の記憶が上にも書いたようにとても断片的だ。前後の日々が結構記憶に残っているのに、なぜか手術日当日の記憶が曖昧なのだ。だから、ここから以下はかなり曖昧な表現になると思う。ただ、自分でも奇妙なのだが、この病院から一旦帰宅する道中が思い切り鮮明に記憶に残っている。私はバイクを運転しながら泣いていた。涙でかすむ目に映る道中の景色まで脳裏に焼きついている。私たちは家族3人。そのうちの2人が同時に手術を受けているのだ。2人には頑張ってもらいたいという気持ちの向こう側で、残された私が何もできないもどかしさ、それと強烈な孤独感が私を襲っていた。そんな複雑な私の心境が、無意識の涙につながっていたのだろう。自宅に戻っても特に何もすることはなく、かと言って何をする気も起こらず、私はただボーっと時間が過ぎるのを待っていたような気がする。その日はとてもとても長い1日だった。

 手術が終わったのはその日の夜、病院から連絡があったか、自分から夕方ごろに病院に向かったのか記憶にない。そして、午後9時ごろ、手術終了の時間を待って、運ばれてきた麻酔で眠っている妻を出迎えて手を握ったのを覚えている。妻は苦しそうな顔で眠っていた。それとももう意識があったのか、それは本人に尋ねても定かではない。

 医師によると、手術は無事成功したとのことであった。実に約12時間かけた手術。この大学病院では2例目の生体肝移植とのことで、他の国立大学から医師を招いての大手術だった。医師に勧められてICUで眠る息子に会いに行った。息子は感染症を防ぐために無菌室に入れられていた。そのときに残っている息子の記憶。目が半開きのまま眠っているが、終わってよかったというほっとしている表情にも見えた。腹水であれだけパンパンだったお腹も、すっかりペシャンコになっていて、そして驚いたことになんとすでに黄疸が消えているではないか! 息子の本当の顔色を見たのは、このときが初めてだった。息子はとても色白なことがこのとき初めてわかった。

 これからは拒絶反応との戦いになるが、手術は大成功だったとこのとき医師に伝えられた。次に案内されたのが病理室。息子から摘出した肝臓を見るためだ。病理室に入ると主治医が息子の肝臓を見せてくれた。それは1センチ幅にスライスされていた。病理解剖のためだ。だが、解剖するまでもなく、素人目に見ても、とても肝臓とは思えないほど醜い色形だった。内部は本来は牛肉のレバーのような鮮やかな赤色をしているとのことだが、それは胆汁ですっかり緑色に変色していて、外側はゴツゴツとデコボコだらけのこげ茶色をしていた。この肝臓で今までよくもったものだと心の底から思った。このときの病理解剖室でのことは、ビデオに収め、現在でも大切に保管している。とりあえず・・・・成功してよかった。

 ICUから出たのがそれから約1週間後。妻もその頃には歩けるほどまでに回復はしていたが、まだ傷口が痛むようで、息子の付き添いができるには時間がかかりそうだった。それで、しばらくは私が付き添うことになった。私の職場の学校も9月1日に始まる。それから以後10日ほどの休暇をとって、私は病院で息子に付き添った。

 9月中旬、14日だったか、15日だったか、悔しいことにはっきりした記憶が残っていないが、星野阪神タイガースが優勝を決めた日。デーゲームの広島戦での赤星選手のライトオーバーツーベース、そして、星野監督の優勝インタビュー。すべて私は病室で観た。そのときの星野監督の優勝インタビューの一言目。私にとっても絶対に忘れることのできないものすごく重い一言を星野監督は言った。「あーしんどかった。」その一言を聞いた瞬間、私は目から涙が止まらなくなった。涙が後から後からとめどなくでてくる。星野監督のセリフが私たちの闘病生活のしんどさとオーバーラップして、阪神優勝の喜びと、手術が終わってほっとした喜びが私の中でも静かに爆発していた。そして、確か9月の下旬か、10月の上旬か・・・・息子は無事退院した。すっかり色白のかわいい男の子になっていた。

 息子は今ではすっかり元気になって保育園に通っている。ただ、毎日朝飲む免疫抑制剤は欠かせず、その薬だけが息子の過去の闘病を物語っている。医師には20歳になるまでは、拒絶反応の可能性が否定できないと言われている。妻の肝臓は奇跡的に息子に合ったようで、拒絶反応の症状はほとんど出ることなく現在に至っている。あれから5年の歳月が流れ、私たち夫婦の間でも、あの闘病生活のことはほとんど話題に登らなくなった。それでも、二人の心のどこかに、あのときのしんどかった病院での日々が確かに刻まれているのである。息子が無事成人することを祈りつつ・・・・

                                    完

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